(食事前に読まないでください)
私の意識とは、自由意志とは何なのか。
有史以来、数多の人を悩ませてきた、この問題について、
九州から帰る列車の中で、私は深く考えていた。
数時間前にさかのぼる。
始発列車に間に合うように、朝食もとらずに、
九州某県庁所在地のビジネスホテルをチェックアウトした私は、
まだ薄暗い街路を一人、駅へと急いでいた。
先ほど、空腹を紛らわすために、
ミントのラムネを食べた。
あれがいけなかったのだろうか?
ミントの刺激は空きっ腹には強すぎたのか?
そんなことを考えながら。
妙に蛇行しつつ、私は駅のトイレに駆け込んだ。
個室は、空いていた。
一目散に、そのうちの一つへ入り、
ドアを閉めると同時にズボンを下ろした。
そのとき全てが終わった。
車窓に光が差し込み、列車は関門トンネルを抜けた。
あのとき、ドアを閉めたあの瞬間でも、まだ、
あと少しは持ちこたえられる感じだったのだ。
しかしそれは間違っていた。
駅までの道のりを内股で蛇行していた私は、
意志の力で耐えられているんだと思っていた。
それが完全な間違いだと今は解る。
今朝、私の身(実)に起きたことの全ては、筋肉の緊張と緩和と、
体の姿勢だけによって決まった。全てが必然の結果だった。
意思の介入する余地など、微塵もなかった。
意思の力は幻想だった。
駅までの道のりも、ただ筋肉を緊張させていれば良かったのである。
そして、便座に座るために、しゃがむ姿勢をとった瞬間こそ、
筋肉の緊張を最大化させるべき瞬間であったのだ!
自由意志は虚構であった。
すべて、今となってはもう遅い。
人は運命には逆らえない。
日は高くなり、車窓に瀬戸の海が輝いていた。
なお、
幸か不幸か、問題は全て着衣の布の中に収まり、
布ごと厳重に密閉して処分した。
公共施設は無事である。