秘すれば花なり

ある日ある町を散歩中に、
ふと、路上の立て看板に目がとまった。
五七五で標語が書いてある。


その文を見て、ふと、思い浮かぶ情景があった。

 

鹿児島に旅した時のことである。

九州南端の、切り立った海の見える坂道を、私は歩いていた。f:id:machigaeta:20171023221553j:plain
行く手から、小学生の一団が坂を登って来るのが見えた。


その子供たちとすれ違うとき、子供たちは私に元気に挨拶をしてくれた。

「こんにちは!」

とすれ違うたびに元気な声
どの子もみな溌剌としていた。

九州の海景とともに刻まれた、快い旅の思い出である。

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「不審者が
 逃げてゆく町
 あいさつで」

 

そしてこれが、
街角の看板の前で、固まった私の、目に映っていた標語である。

小学生が作って、自治体が選び、掲げている物らしい。

(少し文言を変えているが、文意は同じである)

 


記憶の中のあの「こんにちは!」が無限にこだました。

 

 

 

 

さて。

 

挨拶の効能について、
子供に挨拶を教えるべき理由はたくさんある。
今の小学校では、防犯面を強調する要請もあるのだろう。

 

不審者の扱いについてはどうか、
不審者は、単体で不審なのではなく、
観察者がいて初めて不審なのであるから、
この両者にコミュニケーションが成立すれば、
不審者は他の存在になりうるではないか。
不審者のまま追放するのが、良い町であろうか?


だが教育現場は、教育委員会やPTAは、そのような理想論を、

言えるような状況では無いのかも知れない。

 

(いや、待てよ、そもそも、あの九州の思い出と、目の前の看板では、
 距離も時間も、大きな隔たりがあるではないか。
 ふいに短絡した記憶を、再び美しい思い出に戻していいのではないか?
 頭を冷やして・・・
 不審者が / 逃げてゆく町 / あいさつで

 あの日 / 子供たちのほぼ全員が / 私に元気に挨拶をしてくれた。

 

 ・・・・ムリか。不審者か・・・そうか。)

 

  ・・・そのような理想論を、
言えるような状況では無いのかも知れない。
だから、このような教育を即座に悪いとは言わない。


しかし、それを三十一文字に詠んだものを、街角に設置するのはどうだろう
標語を作った子供はいい。選んだ大人の見識を問いたい。

あの街角では
「おはようございます!」
「うるせえバカ野郎!」
そんなコミュニケーションが日々、

 

ないか。

 

 


秘すれば花なり。
いち不審者の放った弱いカウンターは虚空を切って、彼に当たった。