ある日ある町を散歩中に、
ふと、路上の立て看板に目がとまった。
五七五で標語が書いてある。
その文を見て、ふと、思い浮かぶ情景があった。
鹿児島に旅した時のことである。
九州南端の、切り立った海の見える坂道を、私は歩いていた。
行く手から、小学生の一団が坂を登って来るのが見えた。
その子供たちとすれ違うとき、子供たちは私に元気に挨拶をしてくれた。
「こんにちは!」
とすれ違うたびに元気な声
どの子もみな溌剌としていた。
九州の海景とともに刻まれた、快い旅の思い出である。
「不審者が
逃げてゆく町
あいさつで」
そしてこれが、
街角の看板の前で、固まった私の、目に映っていた標語である。
小学生が作って、自治体が選び、掲げている物らしい。
(少し文言を変えているが、文意は同じである)
記憶の中のあの「こんにちは!」が無限にこだました。
さて。
挨拶の効能について、
子供に挨拶を教えるべき理由はたくさんある。
今の小学校では、防犯面を強調する要請もあるのだろう。
不審者の扱いについてはどうか、
不審者は、単体で不審なのではなく、
観察者がいて初めて不審なのであるから、
この両者にコミュニケーションが成立すれば、
不審者は他の存在になりうるではないか。
不審者のまま追放するのが、良い町であろうか?
だが教育現場は、教育委員会やPTAは、そのような理想論を、
言えるような状況では無いのかも知れない。
(いや、待てよ、そもそも、あの九州の思い出と、目の前の看板では、
距離も時間も、大きな隔たりがあるではないか。
ふいに短絡した記憶を、再び美しい思い出に戻していいのではないか?
頭を冷やして・・・
不審者が / 逃げてゆく町 / あいさつで
あの日 / 子供たちのほぼ全員が / 私に元気に挨拶をしてくれた。
・・・・ムリか。不審者か・・・そうか。)
・・・そのような理想論を、
言えるような状況では無いのかも知れない。
だから、このような教育を即座に悪いとは言わない。
しかし、それを三十一文字に詠んだものを、街角に設置するのはどうだろう
標語を作った子供はいい。選んだ大人の見識を問いたい。
あの街角では
「おはようございます!」
「うるせえバカ野郎!」
そんなコミュニケーションが日々、
ないか。
秘すれば花なり。
いち不審者の放った弱いカウンターは虚空を切って、彼に当たった。