座右の書

座右の書
 常に自分の手元に置いておき、その内容をいつでも引くことができるようにしてある本のこと。自分にとって参考になったり励みとなったりする本。

―実用日本語表現辞典

 

 皆さんには座右の書がありますか?
ホットペッパーですか?

 困難に直面したり、右か左か選ぶべき時に、

そんな座右の書があれば、人生の荒波を乗り越えて行けるのではないか。男塾塾生のように。

 そう思って、ある時期、古典小説やら新書やら自己啓発書を手当たり次第に読みました。
もう何年経つでしょうか。基本的に全て忘れました。

ここで終わるのも悲しいので、記憶の糸をたどって、世界的に有名な自己啓発書の一つに数えられる、スティーブン・R・コヴィー著『7つの習慣』から、こんな私でも一時期実践して小粋なアーバンライフが送れた、最も大切な習慣のエッセンスをご紹介します。

この習慣はまず、自分のすべき事柄、したい事柄を書き出して、それを重要度(自分にとって大切か否か)と、緊急度(今すぐやるべきか否か)によって4領域に振り分けます。

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その結果、第二領域にリストアップされた事柄に、日々のリソースを優先的に割くべきだというものです。そうすることで困難な目標を達成できるといいます。

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上に示したように、我々は「トイレで用を足す」という事柄一つをとっても、時と場所、体調などにより、重要性、緊急性を様々に認識しています。完全体になれば、トイレはいかなる場合も第4領域のこととして捉えられるというのです。それが平常心です。

 

かように、座右の書を求めて乱読した名著も、私のざる頭には何一つ残りませんでした。

子曰く、探すのをやめた時、見つかることもよくある話で、

今、折に触れて私が思いだす本の言葉は、絵の勉強を始めた頃に見た、あるデッサンの入門書に書かれていた、次の言葉です。

(描く対象と自分の絵を)謙虚に見比べる。

 デッサンとはつまりそういうことだと書いていました。
その入門書の書名も憶えていませんが、
絵に限らず、様々な場面で私に示唆を与えてくれます。

 

  いまひとつ、男塾塾長江田島平八の薫陶を受けられなかった私に、ささやかな男気を与えてくれる文章があります。
ふと手に取った紀行文のオムニバスに収録されていました。
その文章を思い出すとき、人生について考えます。

 余が札幌に滞在したのは五日間である、僅に五日間ではあるが余は此間に北海道を愛するの情を幾倍したのである。

という書き出しで始まる、国木田独歩の『空知川の岸辺』です。
まずこの文語調のリズムが私は好きです。

 上の部分は「青空文庫」から持ってきました。
もともと著作権が切れている青空文庫の掲載作品は、特記のない物なら、全文転載してもいいらしいのです。青空文庫の存在に感謝しつつ、正座でコピペしました。
 全文引用したいところですが、本日までの全記事の文字数より多くなるので、謹んで私の好きな部分から、最後までを転載します。
気になる方は、青空文庫で全文をご覧下さい。

 

空知川の岸辺

(抄)
作:国木田独歩
踊り:梅沢富美男

 

 余は宿の子を残して、一人此辺を散歩すべく小屋を出た。
 げに怪しき道路よ。これ千年の深林を滅し、人力を以て自然に打克たんが為めに、殊更に無人の境を撰んで作られたのである。見渡すかぎり、両側の森林これを覆ふのみにて、一個の人影すらなく、一縷の軽煙すら起らず、一の人語すら聞えず、寂々寥々として横はつて居る。
 余は時雨の音の淋しさを知つて居る、然し未だ曾て、原始の大深林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど淋びしさを感じたことはない。これ実に自然の幽寂なる私語(さゝやき)である。深林の底に居て、此音を聞く者、何人か生物を冷笑する自然の無限の威力を感ぜざらん。怒濤、暴風、疾雷、閃雷は自然の虚喝である。彼の威力の最も人に迫るのは、彼の最も静かなる時である。高遠なる蒼天の、何の声もなく唯だ黙して下界を視下ろす時、曾て人跡を許さゞりし深林の奥深き処、一片の木の葉の朽ちて風なきに落つる時、自然は欠伸して曰く「あゝ我(わが)一日も暮れんとす」と、而して人間の一千年は此刹那に飛びゆくのである。

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 余は両側の林を覗きつゝ行くと、左側で林のやゝ薄くなつて居る処を見出した。下草を分けて進み、ふと顧みると、此身は何時しか深林の底に居たのである。とある大木の朽ちて倒れたるに腰をかけた。

 林が暗くなつたかと思ふと、高い枝の上を時雨がサラ/\と降つて来た。来たかと思ふと間もなく止んで森(しん)として林は静まりかへつた。
 余は暫くジツとして林の奥の暗くなつて居る処を見て居た。
 社会が何処にある、人間の誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある。此場所に於て、此時に於て、人はたゞ「生存」其者の、自然の一呼吸の中に托されてをることを感ずるばかりである。露国の詩人は曾て森林の中に坐して、死の影の我に迫まるを覚えたと言つたが、実にさうである。又た曰く「人類の最後の一人が此の地球上より消滅する時、木の葉の一片も其為にそよがざるなり」と。
 死の如く静なる、冷やかなる、暗き、深き森林の中に坐して、此の如きの威迫を受けないものは誰も無からう。余我を忘れて恐ろしき空想に沈んで居ると、
「旦那! 旦那!」と呼ぶ声が森の外でした。急いで出て見ると宿の子が立つて居る。
「最早(もう)御用が済んで帰りましやう」
 其処で二人は一先づ小屋に帰ると、井田は、
「どうです今夜は試験のために一晩此処に泊つて御覧になつては。」

 余は遂に再び北海道の地を踏まないで今日に到つた。たとひ一家の事情は余の開墾の目的を中止せしめたにせよ、余は今も尚ほ空知川の沿岸を思ふと、あの冷厳なる自然が、余を引つけるやうに感ずるのである。
 何故だらう。

(明治三十五年十一月―十二月)

青空文庫より引用)

梅沢さんありがとうございました。