寺の名は。(君の名は。)

以下、11月15日を大阪冬の陣の開戦日として、
いいかげんな文章が展開します。
歴史に詳しい方も、どうか笑って許して下さい。

ここから35行目くらいまで「前フリ」です。

オチだけ見るならこちら

 

 

新設の京都鉄道博物館を見た帰り、
京都の町をさまよい歩く私のGooglemapの、
画面に飛び込んできた寺の名は方広寺

時代劇ファンの血が騒いだ。

 

今は京都国立博物館の裏手なるこの寺に、
歴史の風が吹いたのは、
四百三年前
慶長19年。

 

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特別展で賑わう博物館を通り過ぎて、右手に折れると、

方広寺境内は静かな11月の昼下がり。

 

あの鐘は境内の一角に佇んでいた。

 

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慶長19年はすでに徳川の世の11年目であった。
秀吉の遺子 三男秀頼は、父の創建したこの寺に、

追善供養の一環として、大梵鐘を寄進したのである。

 

その鐘が今、私の目の前にある。
鐘に刻まれた銘文は、禅僧 文英清韓の作。

 

国家安康

君臣豊楽


義務教育で繰り返し憶えた四字熟語は、見物客に解りやすいよう白く縁取られて、たしかにそこにあった。

 

この熟語が徳川の目にとまったとき、幕府権力は、


国家安康 は、家康の諱(名前)を分断する呪詛の言葉であり、
君臣豊楽 は、君の名(君主の名)は(←)豊臣だと言っているのだ。


と断じたのである。

そもそも徳川幕府が、秀頼に方広寺の復興を助言したことから始まった、方広寺鐘銘事件。

はたして家康の言いがかりであったのか。

 

いずれにしてもここから起きたそよ風が、
大阪の陣で徳川方に追い風となり
豊臣を滅ぼす血なまぐさい風となったのである。

私は銘文の前でシャッターを切った 

                                                                                             

 (国家安康の鐘)

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